昭和51年03月17日 朝の御理解



 御理解 第17節
 「神の綱が切れたというが、神は切らぬ。氏子から切るな。」

 どういう時に、神の綱が切れたと言う様な思いが、皆さんするのだろうかと。いわば絶望するそんな時ですね。お願いを例えばすると、どうでもと願いをする。それがおかげにならなかった。お参りしてもお参りしても、思うようにはならん。もういうならばもう神も仏もあったもんじゃないと言った様な時ですね、絶望。かというてとばかりにも、また限らんのです。自分の思う事が成就したら、いわば神の綱を切っていくという人も沢山あるとです。お願いに来るおかげを頂いた。
 お礼参りをしてそれっきり参ってこんという人達も沢山ありますからね。大体この十七節は、あのそういう絶望した時の気持ちだろうと思うですね。神からは切らぬ。氏子から切るなと。私は今朝がたからお夢を、ずうっと長いお夢を頂いて、その誰かが合楽の信心について、この質問をしておられるのです。それを私がまあはぁ成程、こんな事が問題になるんだな、こんな事が分かっておられんのだなあと言った様な事を、もう沢山あのそれに私が答えておる、あの所を頂いた。
 私は今日はそれでなるほど、合楽の一つのしおりの様なものを作って、みんなが不審に思うておったり、分からんでおると言った様な所を、こう今日私がお夢の中で頂いたような、その質疑応答と言う様な形でですね。その何かパンフレットのようなものを作ったら良かろうなと今日思ったくらいでした。ね、私はこの神様から、遠のいていったり、神の綱を切っていったりというのは、そういう分からないことやらに出会う事が、あったりするからではないかと思うですね。
 どうも合点が行かぬ分からん、ね。そう言う様な場合に、神様から離れていくと言った様な事になるのじゃないかとこう思うのです。ですから矢張り分からん所は、赤裸々に矢張りお伺いをするとか。合点がいくまで話し合うとか、と言った様なものが要るんじゃないだろうかとこう思います。そらもう実に簡単なことでですねえ、お参りしよったばってんもう、まああそこん信者さんたちがああ言うたから、こげな態度とったからと言うて辞める人もあるし、先生の言う事が、頭にかつんときたけんでもう。
 もう参らんと言うような人があったりね。やっぱ様々だろうとこう思うです。まあ本当に信心も一生懸命してたけれども、思うようにおかげが頂けん。もうそれこそそこに絶望を感じて、ね。それこそ自殺的行為とでも申しましょうかね。神様から離れていくと。本当に自殺的行為です自分で自分を殺していくような事です。そう言う様な事もあろうが、様々な角度から本当に愈々、神様の投げかけて下さる、いうならば救いの綱と言う様なものに、より取りすがってそれを。
 愈々助けて頂くと言う所までいかなければいけないと思うですね。まあ例えば溺れておる。救いの綱が投げられる。それを船からこうやってこう、まっ手繰って下さる。そこで船辺に手をかける。所が引き上げるのほうも、矢張り力が要るが引き上げてもらうほうも、ね。いうなら着物なら着物がじっくり濡れておりますから、中々引き上げ難い。そこん所に、渾身の力を絞ってすがるときに、また神様も渾身の力を持って、それを引き上げて下さる。いうならばお徳の船ならお徳の船に救い上げられる。
 その辺の所が難しいんじゃないか。ね。それこそ船べりに手をかけながら、そしてただ自分の難儀自分のしるしいと言う様なものが、重いために船べりに手をかけながら、またずるずると海の底に沈んでいくと言った様な人もありますねえ。本当にもう一押しと言った様な。私は今日、私があのまあ思い出し思い出し、今日お夢のなかで第一あの和賀心時代を創るという事は、どういう事ですかね。
 なんか丁度教徒社あたりの、新聞のあの編集の方のような感じであったりかと思うと老人であったり、又は若い人であったりと言う様な感じです。もうその質問をする、いろんな角度から質問をしてくるわけです。ね。それから天地日月の心になることと言う事を、天地日月と言う事を、合楽では盛んに言われるが、それはどういう意味の事か。ね、寒天危地とはどう言う事か。
 最近の皆さんどうぞ皆さんが質問しよるというのじゃなくて、あの皆さんはその私が夢の中で質問を受けたような事は、全部分かっておらなければいけないのです大体。ね。だから分かっておるかどうかを一つ、確かめながら聞いて下さい。そしてもし説明が出来ないなら、まいっぺん勉強し直さにゃいけん。もう一遍お伺いしなおさなければいけないという感じがします。
 それからねあのいわゆる、あの大祓い心行をすれば、何故おかげを頂くのですかと。大祓い心行はどういう意図の元に、合楽では合楽あの大祓い心行の徹底を言っておられるのですか。皆さんそれに対して答えて下さいずっと、ね。答えが出来るかどうか。ね。合楽では、御霊様のいうならば前世にかけて、働きかけて下さると言う事は出来んと言いよりなさるのは、それはどういう意味ですかと。御霊様はにどうぞどうぞ頼むと言った様な事はいけないと、合楽では言ってますよね。
 それは死人を舞台に引っ張り出してきて、死人に踊れというのと同じだと。ね。今まで御霊様に、やはり先祖の御霊様を一生懸命拝んで、先祖の御霊様から守ってもらうと言う様な観念を、それを捨ててしまえとは、どういう訳かと。最近合楽では表行を全廃して、心行一筋にされると言うのですが、どういうわけ。例えばね。火の行水の行といったようなものは別として、表行をしないというのは、どういうわけですか。
 表行も心行も例えば、四神様は、表行の出来んものに、心行が出来るかとさえ仰られるのに、どうして表行をしちゃ出来んのですかち。答えが出よるでしょうが。ね。親先生が、朝の御祈念をなさる時に、ね。もう本当に間違いがないきっちり一時間というのは、御祈念をされることが、みんな同じ事だからですかと。ね。私がいわば時計も持たずに、朝の四時から五時に御祈念をさせていただく時には、先ず間違い無しに一時間で終わるわけです。また朝の御理解を説かれるのに、ね。
 いうならば合楽がもう本当に教典一本で行っておられるが、ね。もう前の日からちゃんとその勉強をして、明日はこの何節を説こうというふうにしておられるのですか。どうなんですか。と言う様な意味の事。ね。皆さんもご承知ですね。合楽のご理解が、本当にその神ながらな、いうならばその日その日いうならば、神様から今日は何節とまあ言葉でわかりやすくいうなら、頂いてからその御理解が説かれておると言う事なんですけれども、ね、そう言う様な事に、非常に不思議を感じておると言うのです。
 合楽の先生の考え方で、ね。あのお取次ぎとはどう言う事ですかと。お取次ぎの働きとはどう言う事ですかと。お取次ぎを頂いて、ね。またお取次ぎを頂かなければ頂けない、独壇場的なおかげとは、どういうおかげですかと。成り行きを大切にするとか尊ぶとかと言われるが、ね。どういう程度に成り行きは大事にされるのですかと。又は尊ばれるのですかと。またそれは何故ですかと。
 一切の事に御の字がつけられれば、今までこういう御無礼な事と思っておった事までが、有難いものになるという意味は真意はどこにあるのですかと。私はその質問の中にそんな事は私は一遍も私も知らんばのち言うごたると言う様な感じの事があったんですけれどもね。私が、そんな事を言ったかどうか知らんですけれど、朝起きを朝参りをしなかったら朝参りをしなかったらね、肉体の保証はせんと言われるのはどういう意味ですか。私はそんなことは言ったことはないけどそういう質問もあったんです。
 私はその時にえらい私自身も、夢の中で考えているんです。朝参りをしなかったら肉体の保証はせんぞと。と言う事をひっくり返すとですね。朝参りが出来るくらいの人ならば、神様が肉体の健康の保証をちゃんとして下さると言う事ですよ。皆さんそういう意味でね、朝起きと言う事は昔から三文の徳と言われるくらいだから、とか何とか色々考えてですね。それを質問を受けながらその事を考えておったです。ね。
 皆さんこの朝参りと言った様な朝参りが出来るなら、絶対健康管理は神様がして下さるです。いうならば肉体の保証は、神様が請け負うて下さるです。この朝参りの修行と言う事が、あの徹底して出来たら、そんなものを私はまあ感じながら、まあ話しておりました。親先生にとって手続きとはどう言う事ですかと。親先生にとって親教会とはどういうものですかと。私はそういうまあだ沢山、まあだ沢山あったんですけれども、ちょっと思い出しません。それを私が見事にその解明しておる所です。
 今のその私にちょっとそげな事は、私は言うた事ないよと言った様な感じのが、中に一つあったんです今言うように。ね。朝参りが出来よれば、ぴしゃっと神様が健康の保証だけはして下さると。もう私の手足の動く限り朝参りは、必ず致しますと言った様な人は、もう絶対、私そういうおかげは受けられると思うですねやっぱり。そういう一つの思い込みを強く朝参りに、ね。あの焦点を置けれる人。
 例えばまあだ沢山ありましたけれども、後から思い出し思い出し何か、それの事に対して、私が夢の中で解明した事をです。言うならこう一問一答風に書いて、こら成程合楽では、こう言う様な事を合楽、信者信奉者ですら知っとらなければならない事を、返事が出来んと言う様な場合もあろうし、脇から来た人達は非常にそれを、あのいわば第一ね、合楽示現活動とはと言った様な事もあるんです。ですからそれに本当にこれはもう、当然の事として解明が出来なければ嘘だと思うんです。
 今私が思い出し思い出し皆さんに聞いて頂いた様な事が、ね。だから結局分からない事がです、分からないから神様の、いうならば綱を自分から離していくと言った様な事もまた、沢山あろうと思うのです。それが分かれば、とても神様の綱を自分から離す様な事は出来るはずはありません。ね。そしてなら御理解十八節のです。私共がね金光様のご信心は、どこどこまでも生神を目指すと言う事だと、ね。
 「此の方の事を生神生神と言うが」と言われるがみんなもそんなおかげが受けられると言われるのですから、そういう私はんなら心の状態を開いていく事の為に、御道の信心をさせて頂いておる。合楽にお参りをさせて頂いておる。昨日総会の時に、嘉朗さんが言っておりましたですね。仏教で言う聴聞というのは、いろんないろんな位がある。ね。例えば地獄道に落ちとる人を、畜生道に落ちておる人、ね。またはそのただ普通の人間社会。様々なその社会の層というのがあるのにです。
 いや一番の目指す所は、矢張り仏である。ね。又は菩薩菩薩級と言った様な精進が出来る。それにその何か聴聞私が言う字が同じか、同じでないか知りませんけれども、矢張り聴聞と言う所がある。段々人間的いわば完成を目指す、いうならわが心が神に向こうて段々進んで行く。その過程に生神にに向かっていくその一つの、まあ難関というか通らなければならない所には、必ず聴聞が必要だと言う事である。聴聞と言う事はです。これは天地の真理とでも言おうか、道理とでも言おうか、ね。
 言うなら天地の心とでも言おうか、天地日月の心とでも言おうか。そう言う様なものをです。私共が神の英知を持って諭していただくというお話なんです。だからこの朝晩のご理解は、全部皆さんが聴聞と言う事になるのです。いわば拝聴する拝んで頂かなければならない内容のものだと。ね。生神へのこれは過程。だから自分の我流では、絶対に出来ないと。ね。金光大神はここまでおかげを受けられた。
 だから金光大神の言われる事を、いわば聴聞させて頂くと言う所に、自分の心が段々成長していくと言う事になるですね。だから問題はね。合楽に通うておる、金光様のご信心を頂いておる事が目指す所は、その生神を目指して信心の稽古をさせて頂いておると言う事になれば、どう言う事を聞こうが見ろうが、どんな分からない事があろうがです。神の綱を外すと言う様な事は、先ずはありえないです。
 だから信心のその目指しと言う所を、はっきり置かなければ、ね。ただその事だけをおかげを頂けば良いと言った様な事で、信心が始められるとするならです。それが右左になった時に、又はおかげを頂き終わったら、それで神の綱を切っていったり、外していったりする事になるです。ね。同時にお参りをしておるうちに、一つの壁に突き当たる。分からんこと。あぁもう私は金光様の信心な、分からんごつなった。
 もう親先生の言われるこつが分からんごつなった。といってなら私が沢山の質疑に対して、それに応答しておる様な事が分からんから、もうとても私だん分からんと言うてなら信心の綱を外して行く様な人達も確かにあるです。ね。ですから問題は目指す所を愈々間違いのない所に、目指しを置いての信心でなからなければならない。成程信心の姿勢作りと言う事が言われるが、姿勢を先ず正さなければならないと言う事が解りますですね。
   どうぞ。
 今日私がお話致しましたあの質疑の所で、皆さん全部説明できられると思うんですけれど、一つ説明をしてみて下さい。皆さんが思い出し思い出し。ね、そしてでけとらんならですね、こりゃどうでもおま申し益した位な事は、もう完全にみなさんのものになっとらなけば、合楽に通うておる値打ちはないです。なしかて繰り返し繰り返し私が説いておる事なんです。ね、そこん中に朝参りは絶対のものにしたらですね、神様が絶対健康管理は神様がして下さる。もう肉体の保証は神様がして下さる。ま、そういう大変な事なんですよ。朝参りと言う事はね、やっぱ。ね。信心の稽古と同時に。